白夜航路・3
朝から何だか街が落ち着かないので、隣のヴァイオリン屋の店主に何かあるのかと訊くと
「鳥が渡るのです」
という答えが返って来た。
「少し前にシリウスのゲェトが開いたでしょう。きっと、今夜辺りこの街を通りますよ」
一等上等な銀のヴァイオリンを丁寧に磨きながら、店主は時折とんとん、と胴を叩いて様子を確かめている。
「こんな真冬に、星を渡るのですか」
「真冬だからです。夏だと、良くない有象無象もゲェトをくぐって此方に来てしまいますからね。今年は天の川を流れる星も丁度良く減っていますし、ユニコォンの浅瀬も綺麗に見えているから、旅も楽でしょう。さあ、貴方もそろそろ用意をなさらないと」
「いえ、私は」
何も難しく考える事はないのです。弦をきりきりと張りながら、店主は笑った。
「貴方が貴方だと分かる物を一つ、持ってくればそれで良いのですから。そうすれば、鳥が貴方を見付けてくれます」
そんな物があっただろうか、と思いながら、私は店主に礼を言い、店を辞した。
夕方、戸棚をすっかり引っくり返してぐったりしている私の処に、店主が訪ねて来た。
「残念ですが、貴方の言う様なものは見付かりませんでした」
と言うと、
「それでは、其処にある無線機等如何です」
と言う。あれはもう使えないのだと断ったが、店主は使えなくても良いと言い、私を連れ出してしまった。
海鳴りが聞こえる丘には、既に沢山の人がいた。皆、何かを持っている。時計、重たげな本、車椅子、ぎらぎら光る剣、蒼月長石の指輪。店主も大事そうにヴァイオリンケェスを抱えている。やがて銀色の月が夜空の天辺まで登った時、灯台がちかちかと不規則に瞬いた。
「来たぞ」
誰かの叫び声で、丘はいっぺんに賑やかになった。持って来た物が一層分かりやすい様に、と皆が音を鳴らしたり灯りで照らしたりで、大変な騒ぎだ。そんな中で店主はケェスから銀のヴァイオリンを取り出すと、淡々と弾き始めた。少し淋しい調べは確かに聞いた事があるのだが、如何しても思い出せない。弾きながら店主がしきりに私を促すので、私も仕方なく形だけ無線機のスイッチを入れ、ヘッドフォンを耳に当てた。
―……
勿論、ヘッドフォンからは何も聞こえない。受信周波数の目盛を動かしてもどうしようもない。そうしている内に微かな風が頬を擽り、私の目の前で深い赤の小鳥が店主の肩に舞い降りた。それを皮切りに、色とりどりの鳥達が次々と下りてくる。鳥達は全く迷わず、迎える方もどんな鳥が来るのが分かっていたかの様に迎えた。沢山の羽音と歓声が、ヘッドフォンの外からぼんやりと聞こえて来る。
周囲があらかた鳥を迎えても、私の処に鳥は来なかった。つまらなくなってくるり、くるりと受信周波数の目盛を動かしていると、此方も壊れてしまったのか、ある処でぴたりと止まって動かなくなってしまった。ますます良くない。溜め息を吐いてヘッドフォンを外そうとした時、僅かなノイズが聞こえた気がした。
―…Hello, hello…―
―Hello, 此方アルビレオの観測所…―
それは確かに兄の声で、その言い回しも天文台に勤めていた兄が好んで使っていた物だった。驚いて顔を上げると、真っ直ぐ此方に降りて来る黒い小鳥が見えた。真っ黒で何の模様もなく、唯尾羽だけがひらりと長い。思わず手を伸ばすと小鳥は躊躇なく私の手の中に収まり、兄の眼差しで私を見上げた。