白夜航路・4
その小さな惑星には、黒い猫が一匹住んでいた。純銀の竜胆が揺れる野原に小さな家を建てて、独りで住んでいた。
黒い猫は最初から独りじゃなかった。上品なグレイの毛並みの、従兄弟が一緒だった。黒い猫とその従兄弟の事は、また長い話になる。でも、とにかく二匹はとても仲が良くて、長い間星々を渡っていた。けれど従兄弟はある時心臓に凍星を宿してしまい、二匹はこの惑星に落ち着いたのだ。
良く知られている通り、心臓に凍星が宿ったらどうしようもない。青白く光る星はゆっくり、けれど段々大きくなって、やがて心臓を止めてしまう。黒い猫は一生懸命色々やったけれど、やっぱり駄目だった。それでも必死で治す方法を探す黒い猫を、従兄弟は静かに止めた。独りベッドに縛り付けられて一寸ばかり長く生きるより、少し死ぬのが早まっても君と二人で楽しい事がしたいと言った。
そう言う所はやはり猫だったけれど、猫らしくもなく最期の最後まで黒い猫の傍を離れなかったのは、それだけ黒い猫が好きだったんだろう。黒い猫は悲しかったけれど、従兄弟の事がやっぱり大好きだったから、その願いをちゃんと叶えた。
Libraから青雪石の欠片が降り注いだある冬の朝、黒い猫の前足を握って小さく囁きを交わすと、従兄弟はそれっきり目を開けなかった。従兄弟が逝ってしまっても、黒い猫は特別変わらなかった。毎日しなければいけない事を淡々とこなし、たまに海の見える従兄弟のお墓に行く。
唯、得意だったアップルパイをぱったり作らなくなってしまった。このアップルパイも従兄弟が教えてくれたのだけれど、余り上手に作るから、いつの間にかアップルパイを作るのは黒い猫の仕事になっていたのだ。
だって仕方ないじゃないか、と数ヶ月に一度来る星間商船の、すっかり顔馴染みになった船長が林檎を勧める度に黒い猫は心の中で呟いた。独りなのにアップルパイなんて焼いたら、きっと飽きて駄目にしてしまう、と。
ある日の夕方、黒い猫がいつもの様に窓を閉めようとすると、風もないのに竜胆が一斉に鳴り始めた。薄い玻璃を割る様な音があんまりうるさいから、黒い猫はどうしたのかと外に出て、立ち尽くした。
純銀の竜胆を青白く輝かせて、丘から夜空に星が駆け昇っていく。それがあんまり綺麗だったから、黒い猫は何だか無性に悲しくなって星を追い掛けた。追い付けなければ、従兄弟が本当に遠い処へ行ってしまう気がした。でも、星の速さに生き物が追い付ける筈もない。黒い猫はとうとう真っ白に光る芒の野原で立ち止まった。
夢中で走って来たから、此処が何処かも分からない。途方に暮れた黒い猫がうろうろと芒の中を彷徨っていると、ちらりと黒いものが見えた。しゃらしゃらと芒を鳴らして近付くと、それは黒いワンピィスを着た少女だった。夜空を見上げていた少女は、黒い猫に気付くと少し笑って会釈する。その可愛らしく、けれど何処か寂しげな笑顔を見ながら、黒い猫は従兄弟の言葉を思い出していた。
―僕の星が夜空に昇る時、きっと一番に見付けて欲しい。きっと、しあわせを君に運ぶから。
黒い猫はぽろぽろ泣いた。芒に弾けて真珠の様に散らばる涙を、少女がそっと拭ってやった。
「それが、俺の両親なんですよ」
と、男は肩を竦めた。その時オーヴンがチン、と鳴り、男は赤いギンガムチェックの分厚いミトンをはめて、オーヴンから綺麗に焼きあがったアップルパイを取り出す。
「そして、父が貴方を連れて来た」
薄く笑う男の瞳が、暖炉の光を受けて黄玉の様に輝く。すう、と細くなる瞳孔や、しなやかな手足や、柔らかな髪や、そう言う所を見れば、やはり彼には確かに猫の血が入っているのだろうと思った。
「二度ある事は三度あったりするのかな。俺もいずれ星になるのかしら」
私は一口紅茶を飲み、
「でも、僕と君の間に子供は出来ないよ」
と応える。彼は喉の奥で笑い、私の鼻にキスをした。