月が満ちる、君が欠ける・5
加賀谷はもう一度瞬きし、無機質な白っぽい部屋を眺める。店主もわずかに視線を動かして部屋を見ていた。やがてふぉん、と遠くで車の走る音がして、静止していた部屋の空気が揺れる。ふ、とどちらからともなく溜め息が零れた。
「あれを、見ましたか」
店主の声はいつも通り静かで、加賀谷はごく自然に頷く。
「シャワーを浴びている時も、」
店主が彼女を殺したのだとすれば、私も殺されるのだろうか、と加賀谷はその指先でくるくると器用に回されているナイフを見ながら思った。不規則に光を弾くその刃は今、血に濡れていない。
それはとても当たり前の事なのだろうが、加賀谷と店主にとってはさっきの蜃気楼より異常かも知れなかった。すみません、と店内でグラスを落とした時のような調子で店主は言い、ナイフをすとんと掌に収めると、無造作にテーブルに置いてしまう。
「時々、あるんです。近所では有名な幽霊マンションらしいんですが、僕は余り気にしないので」
その淡々とした口調に何と答えていいかわからず、加賀谷は唯首を傾げる。その様子をどう取ったのか
「怖かったですか」
と店主が気遣うように訊いた。余り、と加賀谷は首を振る。
「驚きはしましたが」
くすりと店主が笑った。
「強いですね」
「いいえ」
血には少し耐性があるだけだ。勿論、狼はあんなに行儀の悪い食い方はしないが。
「貴方も、」
そう言った加賀谷に、店主は目を伏せたまま
「僕はもう、随分前に一人殺していますから」
と応えた。加賀谷は何も言わず、ゆっくりと瞬きをする。随分前、と言うのなら、自分も一人殺している。
「殺したひとにだけ、見えるのかも知れませんね」
ぽつりとそう言うと、店主が顔を上げた。
「あなたが、」
ええ、と加賀谷は笑う。
「生まれる前に、一人」
言い終わると身体が震えた。深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。今まで他人に言った事はなかったな、と、他人事のように思った。
「案外、同じ状況の人はいるものなんですね」
店主の口調は落ち着いていたが、いつの間にかまたナイフを弄んでいる。わずかに震えるその指先を見ている内に、少しずつ加賀谷の方が落ち着いてきた。
「…ええ」
す、と息を吸い、背筋を伸ばして笑う。威嚇するような笑みになっているのだろうな、と思いながら、それより他にどうしていいか分からなかった。
「お兄さんですね」
「妹さん、でしょう」
核心だけを投げ付ける言葉の遣り取りは、まるで喧嘩だと加賀谷は思う。そして事実、お互いが異常に羨ましいのだ。自分のものになる筈だった身体を、目の前に見せ付けられている。しばらく二人は視線を外さなかったが、先に力を抜いたのは店主の方だった。一度視線を外すと、疲れた顔でゆっくりと椅子の背にもたれかかる。
「二人いれば、何か変わったと思いますか」
どうでしょう、と加賀谷も肩の力を抜いて答える。唯、何故お前なのだ、という、周囲の無言だが強い圧力は感じずに済んだかも知れない。そうすれば必要以上に男らしさに憧れる事も、ここまでこの身体を嫌う事もなかったかも知れないとは思う。でも、と一方で加賀谷の意識は揺れる。もし、最初から兄という存在の影も形もなかったら。自分はきちんと女になれていたと思い込んでいるが、それは本当にそうだったのだろうか。あの忌々しい臓器を、この頼りない身体を、きちんと受け入れていたのだろうか。
「もう、身体と頭の中身がどうにも繋がらないんです。男の子みたいだね、と言われる度に嬉しくて、それでも自分は絶対に男にはなれないとどこかで冷めていて、」
自分でもどうしたいのかわからない。『兄』として生まれたかった。それだけが今は確かだ。ええ、と店主は頷いてくれた。
「僕も、女の子みたいだと言われる度、嬉しくて苦痛で仕方がなかった。ある物は取り除けても、ない物は増やせない」
「諦めたんですね」
「あなたと同じだと思います」
ええ、と加賀谷は笑う。そう、ある物は取り除けても、ない物は増やせないのだ。二人同時に溜め息を吐く。二人とも少し気が楽になって、ひどく疲れていた。不意にがたん、と音がして、加賀谷が身じろぎする。どうやら新聞の配達だったらしく、店主は時計も見ずに
「もう六時か」
と呟いた。
「どう、しますか」
加賀谷は首を傾げ、出来ればもう少し眠りたい、と正直に厚かましい事を言った。二時間も寝ていないだろう。店主も余り寝ていないのか、さっきからちいさな欠伸を噛み殺している。とろりと涙の膜に覆われた目で頷くと、彼は
「寝室を使いますか」
と言った。不思議そうな顔の加賀谷に苦笑し、店主はソファの上を指す。そこにある染みを見て、そう言えば、と加賀谷も苦笑した。
「大丈夫です」
店主はちらりと加賀谷を見たが、それ以上は言わなかった。そしてお休みなさい、と呟く。お休みなさい、と加賀谷も返し、彼が自室に入る前にソファに横たわった
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