白夜航路・7


 

 住宅街に、「羊飛び出し注意」と言う看板が立っていた。山道にある動物飛び出し注意の黄色いあれとそっくりだが、描かれているのは明らかに羊で、文字もちゃんと「羊飛び出し注意」となっている。しかし猫位ならともかく、こんな所に羊等いる筈がない。如何にも気になったので、近くの喫茶店に入った時にそれとなく訊いてみた。

「ええ、羊飛び出し注意です」

初老のマスタは、老眼鏡をくい、と押し上げ、何でもない事の様に言う。

「でも此処、住宅街でしょう」

「住宅街だからですよ」

野原なら、羊が飛び出したって問題ないでしょう。そう言って、にこりと笑う。痩身で灰色の髪を綺麗に後ろに流し、黒いベストに長いカフェ・エプロン等着けていて随分澄ました印象だったのだが、そうやって笑うと何だか子供の様だった。

「いるんですか、本物の羊」

「居ますよ。偽物の羊より、本物の方がずっと簡単に見付かるじゃないですか」

姿勢良く立ち、マスタは高く掲げたケトルから勢いよくポットに湯を落とし込む。そしてこん、と蓋をし、砂時計を引っくり返すと、今度は低い位置からゆっくりとカップに湯を注いだ。

「今年は惑星軌道が牡羊座流星群の真ん中を突っ切るから、余計に多いのですがね」

はあ、と私は曖昧な返事をした。最近ちゃんと宙象情報を見ていないが、星間郵便が遅れ気味なのはそのせいなのかも知れない。マスタはそれ以上口を開かず、砂時計の最後の一粒が落ちると同時に紅茶をカップに移した。紅茶は程良く苦く、戸惑う程香り高かった。

 カップの底に少しだけ残った紅茶をさてどうしようかと思っていると、不意にマスタが

「そろそろ彼等が通りますね」

と呟く。彼等、と鸚鵡返しに言うと、

「羊です。朝とね、夕方にあの通りをぞろぞろ通る」

本当だろうか、と思わずマスタの顔を見ると、しれりとした顔でこちらを見返して頷き、それからまたにこりと相好を崩して見ますか、と言った。

「そりゃあ、」

では行きましょう、とマスタはカフェ・エプロンの腰紐を外してしまう。店は良いのかしらと思ったが、マスタはコートに手を通すとドアノブに掛かっているプレートをくるりと換え、私を促す。プレートをちらと見れば、「Just a moment, please」と書いてあるのだった。

 住宅街は、先程と同じく静かだった。子供の声も聞こえない。す、背筋を伸ばし、優雅に足を進めるマスタの後ろを、少し猫背の私ががさがさと大股で追い掛ける。

「嗚呼、今日は早いな」 

マスタの呟きが聞こえてすぐ、どどど、と言う様な音がした。思わずそちらを見ると、先程看板を見た道路に大量の白い塊が動いている。

「ひつじ、」

「案外利口なもので、大抵は信号を守りますよ」

その言葉通り、羊達はちゃんと赤信号で止まっていた。

「何処に行くんですか」

「さあ。この通りを真っ直ぐ行くのは知っているけれど」

しかし、信号が青になっても羊達は真っ直ぐ進まなかった。のそりと動き出した群れは、何故か左折してこちらに向かって来たのだ。あっと言う間に私達は羊の流れに呑まれてしまう。羊達は、皆私が目当てらしかった。ぐいぐいと鼻で突かれ、存外強い力で体当たりされて身動きが取れない。とうとう一頭がコートのポケットの中にまで鼻を突っ込みだし、私は慌ててジャケットの胸ポケットを押さえる。

「どうしたら良いでしょう」

叫ぶ様に訊くと、羊の激流の中でもすらりと立っていたマスタは組んでいた手を顎にやり、

「その胸ポケットの中にある手紙をくれてやりなさい」

と言った。私は思わず更に強く胸ポケットを掴む。

「これは、駄目なのです」

「おや、彼等、大事な手紙には大抵余り興味がないのですが」

ラヴ・レターとかね。悪戯っぽい笑みでマスタは言うが、私はそれどころではない。もうコートの釦は幾つか飛んでしまっている。その時黒い顔の一際大きな羊がぐい、と伸び上がって胸ポケットに鼻を突っ込み、真っ白な封筒を咥え出した。そして、口に封筒を咥えたまま器用にめえ、と鳴いて背を向ける。すると、他の羊達もくるりと向きを変え、本当に潮が引くようにすうっと行ってしまった。あっと言う間に元の静けさを取り戻した道路に茫然と座り込んでいると、裾と髪の乱れを直し終えたマスタが大丈夫ですか、と声を掛けた。

「ええ、まあ」

差し出された手を掴んで立ち上がると、何だかやけに身体が軽かった。折角丁寧に書いた遺書だったのに、と小さく溜め息を吐き、ふと今夜どうしよう、と思う。

「お時間があるなら、少し店で休んで行かれたらどうです」

「大変ありがたい申し出ですが、残念ながらホテルを探さないと」

「全く、死ぬ気も失せるでしょう」

はっとしてマスタを見ると、澄ました顔でこちらを見返し、それからくすりと笑った。

 

 

 

 





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