月が満ちる、君が欠ける・1
初めに、肋骨の上からそっと心臓に口付ける。それから腹を裂いて胃、腸、膵臓、脾臓、最後に肝臓。狼は大抵この順番で加賀谷を食う。その牙がぶつりと筋や血管を断ち切ってぐずりと臓腑に食い込み、時折骨に当たってこつ、と奇妙に澄んだ音を立てるのを感じながら、加賀谷は静かに目
を閉じていた。 痛くもないし、怖くもない。零れた血や隙間の多くなった腹の中、そして動かない手足を丁寧に丁寧に舐められ、硬い毛並みがそっと頬に擦り寄せられると、愛されているような気にさえなった。薄く目を開けて何とか腕を伸ばし、加賀谷は狼の額に手を置く。腹筋が使えないと何をするにも不便だというのは、狼に食われて初めて分かった事だ。言葉も満足に出せない。狼はその金色の瞳でちらりと加賀谷を見上げ、つめたい指先を舐めた。 狼が食うのを止めた途端、加賀谷の身体はゆるやかに再生を始める。ぎちぎちと肉が繋がり、隙間を埋めるように臓腑が育つ。それはとても、気持ちが悪かった。 やがて丸い月が高層ビルの狭間に落ち込んでいく頃、加賀谷はようやく口を開いた。ひゅう、と風が抜けるような音がまだ時折混ざるが、聞けない事もない。 「どうして、あの二つを残すんだ」 加賀谷の隣に寝そべり、半ば目を閉じていた狼は一言 「不味い」 と答えて寄越した。なるほど、と加賀谷は笑う。それならば仕方がない。 「それに、あの二つが無くなればお前は矛盾しない」 「いい事じゃないか」 そうかな、と今度は狼が笑った。 「おれに逢えなくなっても?」 ああ、と加賀谷は呻いた。確かにそれは、困る。 加賀谷は普段酒を飲まないが、狼に食われた次の日だけ、大学の近くにあるちいさなバーに寄る事にしていた。 「閉めてしまいましょうか」 午前二時を過ぎた頃、ドライ・マティーニを持て余す加賀谷にぽつりと店主が呟いた。インテリアが黒で統一された店内には、二人しかいない。いいんですか、と加賀谷は形だけ訊く。看板には午前三時までと書いてあるが、少なくとも加賀谷の前でそれが守られた事は一度もなかった。 「ええ」 自分と似た顔が、困ったように笑う。どこが似ているとは言いづらいが、兄弟がいればこんな顔だろう、という、曖昧な、だがそれ故に似ているという印象を強く植え付ける顔だった。 「雨ですしね」 道理で頭が痛い筈だ。加賀谷は溜め息を吐くと、グラスに三分の一程残っていた酒で頭痛薬を飲んだ。いつも持ち歩いているそれは、市販のものよりは強い。だが、これで死ねる程強くもない。くらりと目が回って、少し意識が曖昧になって、眠ってしまえばそれで終わりだ。机に突っ伏した加賀谷を気にする風でもなく、店主は静かに片付けを進める。グラスを洗っているらしい水音が、加賀谷の意識を辛うじて繋ぎ止めていた。 「起きられますか」 「…ええ」 かすかなシトラスの香り。店主の手が肩に置かれている、と理解した一瞬後に、その手は離れていった。それでは行きましょう、と独り言のように言い、店主は元々薄暗い照明を完全に落とす。それでもぼんやりとものの形が分かるのは、外から差し込む灯りのせいだろう。 気を抜けばふら付く足元に少しだけ注意しながら、加賀谷も立ち上がる。店主の影が、淡く加賀谷を包んでいた。差しかけられる傘が綺麗な青で、加賀谷は笑ってしまう。そう、傘には血が付く心配がない。 店主の家はバーのすぐ裏で、少し古いがまだ綺麗な、ちいさなマンションだ。一階の隅が彼の部屋で、リビングの端に置かれたワインレッドのソファが加賀谷の居場所だった。 「お邪魔します」 何度来ても、どこか生活感のない部屋だった。まるで図書館のように本だけが目立つ室内はしかし、加賀谷を安心させる。 「これを」 ソファの横に鞄を置くのとほぼ同時に、毛布とバスタオルが渡された。 「それでは」 店主はそう言って、すぐに背を向ける。加賀谷はその華奢な後ろ姿に唇だけでお休みなさい、と呟き、ソファに倒れ込んだ。生ぬるい水に潜るように、眠気に落ちていく。やがてふっつりと、糸が切れるように意識が途切れた。 あたたかい水の中は居心地が良くて、このまま目覚めなければいいのに、と思う。その一方で、自分がもう覚醒しつつある事を知っている。息継ぎのために水面に顔を出すような自然さで、加賀谷は目を覚ました。明け方の青白い光の中に、店主の端正な横顔が沈んでいる。ひっそりと、二人の視線が合った。 「起こしてしまった」 加賀谷は答えずに身体を起こし、未だに残る頭痛薬の効き目に少し顔を顰めた。店主の右手にはいつものようにナイフがある。その刃が血塗れなのも、いつもの事だ。しかし柄の色はいつもと違う事に気付き、加賀谷は新しいのですか、と訊いた。店主はにこりと笑って、そう、と頷く。ほら、と嬉しそうに銀の百合が埋め込まれた黒い柄を見せながら、店主は躊躇いなく左腕を右手の袖で拭った。 白いシャツに、べったりと血が付く。このひとにとってのナイフは、自分にとっての狼に近いのだろうと加賀谷は思っている。だから左腕の内側については何も言わず、綺麗ですね、とだけ言った。しかし本当に、細身でバランスのいいナイフだった。男としては些か華奢な店主の手には、大振りで武骨な前のものより似合っている。 彼が手を動かした拍子に刃の先からぽたりと血が落ちて、またシャツに赤い染みが出来た。朦とした目でそれを見遣り、店主は無造作に刃を裾で拭う。ふと、このひとはどんな顔で自分に刃を向けるのだろうと加賀谷は思った。他人事のように、淡々と刃を滑らせるのだろうか。それとも、その白い顔にわずかにでも苦痛の色を乗せるのだろうか。笑っているのかも知れない、と最後に思う。いつもの困ったような笑みではなく、安堵の笑みだといい、と願うように思った。