月が満ちる、君が欠ける・2


 

 店主の様子を眺めている内に加賀谷はまた眠ってしまい、次に起きたのは昼前だった。店主も寝室に入ったのか、姿が見えない。シャワーを貸してもらおうと風呂場に行くと、隣接する洗面所の床に血塗れのシャツとタオルが放り出されていた。これだけ見ればまるで殺人犯の部屋だ、と加賀谷はくすりと笑い、確かに殺人未遂ではあると思い至って更に笑った。

 唯、あの店主は恐らく自殺をしないだろう、という確信が加賀谷にはある。トラックが突っ込んできたら避けないが、自分からトラックに突っ込む事はないと思うのだ。中途半端な破滅型。熱いシャワーを出すと、傷もない左腕がぎしりと軋んだ。

 加賀谷は一応、大学生という事になっている。その日もシャワーを浴びた後、一瞬迷ったが学校に行く事にした。ドア越しにちいさな声で店主に挨拶し、玄関の鍵を掛けて、郵便受けからその鍵を中に放り込む。鍵が落ちる音を聞いた瞬間、もし今店主が中で死んでいたら、と不吉な想像が頭を掠めた。

 死んでしまっても、彼は構わないのだろう。けれど、一体誰が鍵の掛かった部屋の中にいる彼を見付けるのだろう。そんな事を考えながら、加賀谷はマンションを後にする。ぼんやりとした春の空が、晴れない眠気を増長させた。

 加賀谷は時々、自分が五、六人いるような気になる。知人と笑いながら話すのと同時に狼に食われている自分の様子を詳細に思い出していたり、フーリエ変換を解きながら店主の左腕について考えていたり、思考は纏まりなく展開しながらも、それぞれが一応並行処理されてしまっている。だが、どれも真剣に考えている訳ではなさそうだった。加賀谷にとって世界はどうも、遠い。食われながら、この日はそんな話をした。

「感覚が、鈍いんだろうか」

最初の腹の裂き方を失敗したのか、珍しくこの日狼は脇腹まで大きく裂いた。肺も、少しやられたようだ。そのせいで治りが悪い。息をすると、未だに口の中に血の味が広がる。一応の責任を感じているのか、ざらつくあたたかな舌で丁寧に傷口を舐めながら、狼は低く唸った。

「お前より鈍い奴はいくらでもいる」

そうだろうか、と加賀谷が呟くと、そうだ、と狼は鼻を鳴らした。

「お前は普通だよ。自分が思っているよりずっと」

風が抜けるような音を交えながら、加賀谷は大笑いした。余り動くな、と低い声が囁くのを聞きながら、まだ肩を震わせる。

「そ、う、か」

銀色のたてがみを薄らぼんやりとした月に鈍く光らせ、狼は奇妙な生き物を観察する目で加賀谷を見ていた。これが何であれ、と息を整えながら加賀谷は思う。こんなにやさしい生き物は知らない。

「そう言えば、狼は私しか食わないのか」

どうだろうな、とはぐらかすように狼は言い、腹を舐めるのを止めて加賀谷の隣に寝そべった。ちくちくと毛並みが頬を刺す。

「何故、そんな事を」

店主を食ってやったら少し落ち着くのではないか、と思った事は口に出さず、加賀谷もいいや、とはぐらかす。

「腹が減らないかと思っただけだ」

「余計な世話だ」

心底そう思っている口調で答え、狼は眼を閉じた。内側から輝くような、綺麗な瞳が隠れてしまう。

「別に、毎日来てもいいのに」

ぽつりと呟くと、

「あんなものを毎日食いたくはない」

と返るとは思っていなかった答えをもらってしまった。

「不味いか」

苦笑して言ってやる。金の瞳が、また薄く開いた。

「いいや」

狼は眼だけで笑うと、

「唯、お前の臓腑は重い」

と呟いた。

「少し、痩せましたか」

カクテルを差し出した店主がそんな事を言い、加賀谷は少し驚いてその黒い瞳を見上げてしまった。話し掛けられれば答えるが、常連らしい客にも無駄話をしているところを見た覚えがない。

「いいえ。…多分」

そうですか、とだけ言い、店主はまたカウンタの奥に戻っていく。蒸し暑い日なのに、いつも通り長袖だ。そして、決して袖を捲らない。

「若いねえ、マスターいくつ」

いつの間にかカウンタに陣取った、中年の集団が何やら店主に話しかけていた。

「三十です」

多分嘘だろうな、と店の隅でジントニックをかき混ぜながら加賀谷は思う。一週間前は二十七、その二ヶ月前は二十九。その辺りではあるのだろうが、どれが本当かは分からない。若いなあ、このお店自分のなの、それともあれ、雇われ店長って奴、え、自分のなんだ、いいねえ、じゃあ結婚は、などと無意味に騒ぎながら、男達はまたいつの間にか話題を変えている。店主の空気は決してこういう客に馴染まなかったが、拒絶もしない。男達の言葉が黒い澱となって店主の血管を流れ、いずれ内側からその肌を裂いて溢れ出す。その様を、加賀谷はしばらく幻視していた。

「ねえ、ひょっとして妹さん」

ぼんやりと氷の解けてゆくカクテルを眺めていた加賀谷は、その言葉を捉えて顔を上げた。瞬間、店主と目が合う。いつもの困ったような笑みではなく、何とも淋しそうな笑みを見せ、店主は視線を逸らした。多分、自分も笑っているだろう、と熱を帯び始めた頭で加賀谷は思う。店主は客に向き合うと、

「いいえ、彼女はお客様ですよ」

とわずかに視線を外したまま言った。

「何だ、ほら、お兄さんちょっと女顔だから」

「いや、あの子が男顔なんじゃないの」

だみ声にも薄く笑みを貼り付けたまま、店主はすっと加賀谷のグラスを取り換えた。すみません、という一言が、意味を成さない程自然に流れ込む。顔を上げた時には、店主は何事もなかった顔でシェーカを振っていた。もう飲めないのに、と思いながら惰性で口を付けると、甘ったるいミルクティの味がする。そう言えば一度頼んだ事があったな、と思いながら、加賀谷は一気にそれを飲み干した




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