月が満ちる、君が欠ける・3
その日も、午前二時を過ぎた辺りで店主は店を閉めてしまった。俯いてテーブルを拭く姿は、どことなく疲れているようだ。その黒いシャツから覗く項や手首にはくっきりと骨や血管が浮き出ていて、彼の方が痩せたのではないかと加賀谷は思う。
「手伝いましょうか」
「いいえ」
白熱灯の下で見ても白い顔が、いつも通り困ったように笑う。
「こうして片付けている時が、一番落ち着くんです」
そう言って、店主は机の上に放り出されていたメニューをそっと元に戻した。それから椅子を机に上げ、灰皿を回収する。カウンタの中に戻ると、彼はざあざあと乱暴な程水を出してそれを洗った。店名に因んでだろう、灰皿の縁には黒猫が寝そべっている。洗い終えたそれを、店主は几帳面にシンクの横に並べた。そして黒いエプロンを外し、釦を止めたまま、申し訳程度に引き上げていた袖を元に戻す。その様子を見て立ち上がろうとした加賀谷を視線で制し、店主は
「五分だけ、待っていて下さい」
と言った。
かたんと音を立て、彼は店の備品より一回りちいさい、白い灰皿をカウンタに置く。おとなしげな店主の雰囲気にはそぐわないような、だがその雰囲気に隠れているはっきりとした顔立ちにはよく似合うような、不思議な感じがして加賀谷は首を傾げる。そして、それが自分に言われた事と全く同じだと気付いて密かに苦笑した。ふう、と薄い唇から煙を吐き出し、店主が首を傾げる。
「意外ですか」
「いいえ。―それより、私もいいですか」
そう呟き、加賀谷は自分の煙草とライタを取り出す。今度は店主が少し目を大きくした。
「成人していますよ」
「ええ」
でなければ僕が逮捕されてしまう、と苦笑され、加賀谷は自分の発言の愚かさに気付いて赤くなった。照れ隠しのように高い音を立ててライタの蓋を開け、煙草を咥えると大きく息を吸う。ふ、と肺には入れずに吐き出すと、二人分の煙が店内を漂った。
「さっきはすみませんでした」
唐突な一言に何と言っていいか分からず、加賀谷はいいえ、と無意味に首を横に振る。
「そんなに、似ているんでしょうか」
「ええ、多分」
煙草を持つ、細く長い、骨張った指。自分のどこか丸い手とは違う。店主はやはり男で、加賀谷はどうしても女なのだ。
「こんなに違うのに」
「ええ」
呟いた声に、囁くように返される。灰皿の縁にたん、と勢いよく煙草を打ち付け、灰を叩き落すと店主が苦笑した。
「どうかしましたか」
何も言わず、彼は唯灰を落として見せる。同じ落とし方だった。くっく、と加賀谷は笑ってしまう。店主もくすくす笑っていた。
「何を吸っているんですか」
少し気安くなった気がして、加賀谷はそっと尋ねてみる。店主が差し出した箱は赤。加賀谷が差し出した箱は黒だった。
白い灰皿を洗い、カウンタの隅に片付けると、店主は
「お待たせしました」
と照明を落とした。整然と整えられた室内は、ほんの一、二時間前の喧騒が嘘のように静まり返っている。これがこの人とこの場所の一番正しい姿なのかも知れない。警報装置を弄っている店主の背を見ながら、加賀谷はふとそう思った。
その日、店主は眠る前にシャワーを浴びていた。ソファに寝そべって本を読んでいる加賀谷にも、水音は聞こえてくる。ひとが傍にいる、と主張しているのに、その途切れる事のない単調な音は眠気を誘った。
普段、加賀谷は他人の傍では寝付きが悪くなる。一度目は完全に酔って潰れてしまっていたから例外かも知れないが、その後も何度も泊めてもらい、挙句すうすう寝入っているなどどうかしている。恋人でも、愛人でもないのに。
寝返りを打って加賀谷は本を閉じ、ついでに目も閉じた。腕に当たるやわらかな胸が鬱陶しい。薄くやわらかく身体全体を覆う脂肪の膜が鬱陶しい。この身体を認めるのが嫌で、加賀谷は他人に身体を抱かせた事がない。だから、決して距離を縮めない店主はとても安心で、同時に追求し始めるとよく分からなかった。本当にサイコな殺人犯かも知れない、とさっきまで読んでいた本を思い出し、不穏な想像をする。もしそうならば、彼はきっと知能犯だ。見付からないためならば、死体を凍らせてウッドチップ並に粉砕するくらい淡々とやってのけるだろう。
それはそれでいいな、と加賀谷は思う。唯、臓器は冷凍でもして狼のために取っておいてやって欲しい。食われるから、完璧な隠蔽工作だ。いっそ、共同作業なんてどうだろう。綺麗に解体出来る筈だ。シャワーの音は、まだ止まない。加賀谷は赤と黒の夢に呑まれていった。