月が満ちる、君が欠ける・4

 

 

足下が滑るのは、そこが血の海だから。手が滑るのは、血塗れだから。

 

何を、殺したのだろう。何故、殺したのだろう。

 

思い出せないが、まだ殺さなくてはいけない。まだ、いる。ぱしゃぱしゃと飛沫を上げて走りながら、形もよく分からないそれを殺す。やわらかな塊は声もなく崩れて、少し気分が落ち着いた。手の中のナイフを持ち替える。どこかで見た柄だ。血にも染まらない銀の百合。誰かの。誰の。

 

 頭が痛い、と思うと急に身体が重くなり、加賀谷は目を覚ましてしまった。店主の部屋は全体に白っぽい。さっきまで黒っぽく、しかも血塗れの風景の中にいた加賀谷は、二、三回瞬きをして身体を起こした。その瞬間、脊髄を伝って痛みが走る。ひじ掛けにもたれながら足元に置いた鞄を探り、頭痛薬のシートを探り当てた。水を取りに行くのも面倒だったのでそのまま飲み下すと、一瞬喉に引っ掛かり、苦く、その癖どこか気の抜けた味を残して胃に落ちて行く。

 まだいつもの時間には早いのか、暗いリビングに店主はいなかった。ほっとしてもう一度ソファに寝そべると、薄く眼を開けて天井を眺める。脈拍とリンクして、脳の奥がずくずくと痛んだ。自分の痛覚は頭痛に対して特化している気がする、と加賀谷は舌打ちする。昔、何となく自分は長生きしないと思っていたが、それは多分頭痛のせいだったのだろう。今でさえ余り頻繁に頭痛が続くと時々そんな気になるのだ。痛みと眠気の間でうつらうつらと揺蕩っていると、やがて薬が効き始めたのか、頭蓋骨と脊髄の繋ぎ目辺りが冷たくなり、味覚がおかしくなってきた。

 少し楽になってずるずると眠気に引き摺られるが、眠ってしまうにはまだ効き目が不十分だ。今目を閉じてしまうと平衡感覚がおかしくなり、気分が悪くなるのはわかっていたので、加賀谷は人形のように無意味に目を開けていた。

 少しずつ、部屋が青く明るくなっていく。今日もいい天気なのだろう。そう言えば、店主の部屋に泊まった朝は大抵いい天気だ。カーテンの隙間から零れる光を追っていると、焦点すら怪しかった視界が不意に収束し、天井の一点に意識が落ちた。何かの影ではない、奇妙な模様。珈琲が飛び散ったようなその薄い茶色は、夢のせいか不吉な印象を与えた。どうかしている。加賀谷はぬるく淀んだ息を吐き出して一度目を閉じ、ゆっくりと身体を起こす。そして、店主に渡されたバスタオルを持って風呂場へ向かった。

 服を脱ぎながら、ふと加賀谷は自分と違う匂いに気付く。シトラスの匂いとそこにかすかに混じるウッディ・ノート。店主の匂い、なのだろう。泣きたくなった。あの人は、努力しなくてもおとこのひとなのだ。やさしい顔立ちをしていても、どこか自分に似ていても。狼の食わない臓器がずくりと痛む。それを振り切るように背筋を伸ばして大きく息を吸うと、加賀谷は左の掌に爪を立て、右の中指をきつく咬んだ。

 泣いてもどうしようもないならば、と歌うように加賀谷は思う。泣いたって仕方がないのだ。泣くと疲れるし、折角治まりかけた頭痛もまた再発する。そして考えても解決方法がない事がわかっている事は、意識に乗せるだけ無駄だ。シャワーを浴びて、すっきりして、もう一度眠ればまた落ち着くだろう。犬歯の跡が赤く残った右手で、加賀谷は風呂場のドアを開けた。

 熱めの湯で乱暴に短い髪を洗い、適当にリンスを馴染ませてあっさりと落す。シャワーを止め、ボディソープを手に取った時だった。足下がぬるりと粘る。シャンプーが残っていたのかと何気なく視線を向けた加賀谷は、危うく声を上げそうになった。血だ。自分の身体からではない。そんな、量ではない。だらだらと床一面に広がっているのだ。どこからかはすぐに分かった。風呂場の隅に転がされた、白く細い、やわらかな輪郭の腕。

 店主の腕では、ない。早くなる呼吸を無理矢理に抑えながら、それでも加賀谷は案外冷静にそれを見ていた。あれは女の手だ。不謹慎かも知れないが、うつくしい手だった。目を閉じる。店主が関係しているのだろうか。しかし、風呂場に入った時にあんなものはなかった。一つ、二つ。ホラー映画みたいに悲鳴は上げられないのだ、と妙な事に感心しながら、加賀谷は三つ数えて目を開けた。そして、少し背筋が寒くなる。何もなかった。血も、腕も、何も。唯、手から零れたボディソープが白く糸を引いていた。

 余り長居もしたくなかったが、身体を洗わないのも気持ちが悪かった。特に、足は。結局いつもより丁寧なくらいに身体を洗い、加賀谷は風呂場を出る。出る時にちらりと確認しても、やはり腕はなかった。シャツを羽織って洗面所から出ると、薄青い光の中に店主の背が見える。

 無性にほっとした。ソファに腰掛け、ぼんやりと窓の外を眺める店主の横顔を見ながら髪を拭く。その手に、ぽた、と水滴が落ちた。ぽた、ぽた、とその後続けざまに水音がする。ああ、と加賀谷は黒いデニムの上でもわかる粘度の高い液体をそっと掬い、天井を見上げた。やはり、あれは血の跡だったのだ。床も一面、血の海になっていた。店主は何もないかのように、唯外を見ている。不意に店主が足下を見、そして加賀谷を見た。二人がほとんど同時に瞬きをする。次の瞬間、部屋は先程までの青白さを取り戻していた




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